木星について。(2004/6/19)

ジュピター。
太陽系で2番目に大きな星。
ギリシャ神話で一番偉い神様は
ゼウス
だというウワサですが、
ゼウスは実は、太陽の神様じゃなくて、
木星の神様なんだそうです。
太陽神は、ヘリオスとか、アポロンとか言われてます(記憶が定かでない)。

木星は大きくて、ガスでできていて、夜空にもとても大きく見える、
非常にうつくしい星です。
私は、夜空に木星を見つけると、とってもトクした気分になります。
なぜなら、
星占いでは、木星は
幸運の星
と言われているからです。
幸運。
なんだか、よさげではありませんか。
私は不幸の星のモトに生まれた
とはよく思うことですが
幸運の星のモトに生まれることだって、できるわけですよね。
幸運の星を見つけて、それをみつめる。
幸運の星が天に輝いている!
私は今、幸運の星のもとにあるのだ!
おおお、、、なんかイイコトありそうだ!
そんな気分になってきます。

しかし、幸運って、いったい何でしょう。
木星の扱うことをもうすこし詳しく調べると
星占いの教科書には

 膨張
 発展
 成長
 財産
 倫理
 長距離の移動
 出版
 楽観
 動物(???)
などと書かれています。
ど、動物。。。

ガスでできている、とても大きな星ですから、
膨張する、拡大する、ひろがってゆく、というイメージは
とても納得です。
そういえば、ゼウスは、いろんなものに姿を変えて
恋(と言う名の劣情(としか思えん))を遂げました。
牡牛になったり、白鳥になったり、
時には動物ですらない、
黄金の雨
になったりしました。
恋(と言う名の劣情)の相手・ダナエが、
どんな動物でも侵入不能な塔に、諸事情あって、
閉じこめられていたからです。
しかし、いくら「黄金」でも、だな。
雨に変身
って、どうよ。
かなり、やけくそ。
しかし、自分の意識というか、ありかたを、
そこまで「抽象化して広げる」ことができるというのは
(変身ってそういうことだよね)
ある意味、木星マターなのかも
とおもったり、おもわなかったり。

木星は、およそ12年で12星座を一周するので、
一つの星座にだいたい1年間、いることになります。
ですからたとえば、年運を見るときは、
木星と火星の動きに注意すると、
その年の傾向というか、カラーがわかりやすくなるようです。

太陽系における軌道を考えていくと、
まず、中心に太陽がある。
これは「自意識」「意志」「自己」など、軸となることを示します。
次に水星。これは「思考」「コミュニケーション」。
次が金星。「愛情」「喜び」「個人的な感覚」。
次が地球ですがコレはとりあえずおいといて、
月が「感情」「肉体」。
そのつぎ、火星が「攻撃する」「勝負する」「たたかう」、わけです。
地球までの、つまり上記では月までの星は、
「自分」
を扱っています。
非常に身近なこと、自分の一部であるようなテーマ。
これらの事からは死ぬまで、逃げられないわけです。
でも、火星以降はちょっと違います。
火星は、たとえば、敵前逃亡とかできます。
逃げられる。
やめることができる。
木星のテーマも、よく見ると、
自分
からは少し離れたところにあります。
思うに、
火星や木星って、
「個」
が
「外界・他者」
のほうに向かっていくありかたを考える星なんですね。

火星は、自分個体のエゴをまっすぐにつきつめる戦いです。
では木星は何かというと、
自分を、ひろげる、という感じがします。
社会という編み目の中に、自分も編み目を張っていく。
火星が、人の持ち物を奪う星だとすれば、
木星は、自分の取り分を探す星です。
火星は、自分の取り分が世の中にあるかどうかわからないので、
必死になって勝ち取りにゆきます。
でも、木星はそうじゃない。
自分の取り分は、世界のなかにちゃんと、たっぷりあるのです。
それがわかっているのです。
だから、それを
ふんふーん
って鼻歌歌いながら、とりにゆけばよい。
道は長いかも知れないし、まあ、辛いこともあるかも知れないけど、
なにしろ自分の取り分なわけであるからして
ま、大丈夫だ!
っていう星。
そんな気がします。

人は、生まれてきて、他者と関わって生きています。
これはとても不思議なことです。
この間、乙女座の週報に
アリ社会
の話を書きましたが、
人間社会だってそれと大差はないわけです。
どんなに肩肘張ったって、頑張って自律を目指したって
結局は他人様のお世話になり
他人様のお世話をして、過ごしているわけです。
生き物は、もともと単細胞生物で
その単細胞生物が集まって、だんだん複雑な生き物に変わっていったと言われますが
それがほんとうならば
我々の身体だって、一個の社会なワケですね。
もはや、ひとつひとつの細胞に分解しても
生きてはいけない。
自分から剥がれ落ちた細胞が自立して生きていったりしたら
コワイわけです。
髪の毛抜いたら毛根の細胞がひくひく動き出した!
爪を切ったらツメの先がエサを求めて動き出した!
とかなったら、こわいだろうなあ(爆
でも、そんなことには、なりません。
もう、ものすごく分業している。
お互いがお互いのために「だけ」存在しているような世界。
人体がそのように成り立っているわけですから、
人
という個体もまた、
そういう衝動を持っているのでしょう。
他の細胞と切り離しては、もはや生きていけない「個」としての細胞。
社会から切り離しては、生きてはいられない「個」としての人間。
同じ仕組みが、小さい単位にも大きな単位にも適用される。
入れ子のような、ひろがり。

木星は、
射手座の支配星です。
射手座も、哲学とか、長距離の移動、成長、出版、海外などに縁の深い星座です。
他に、法律なんかを扱うとも言われます。
一方で、
海王星が発見されるまでは、
木星は魚座の支配星とされていました。
今も、副支配星です。
魚座、射手座。
水の星座と火の星座で、だいぶ違っているような気がしますが、
この両者には共通点があります。
それは、
境界越え
の力です。

魚座と射手座は、ものごとを抽象的に考える事が得意といわれます。
具体的建設的な「思考」を離れ、
もっと直感的に、もっと思想的に、
考えが考えのママ広がっていく星座です。
ものごとは、現実の世界では、
きちきちと切り分けられていて、それぞれに固有のノイズをもっていて
なかなか一般化できません。
バナナはバナナなのだ。
リンゴはリンゴなのだ。
ジャガイモはジャガイモなのだ。
見た目にとらわれると、その違いにばかり目がゆきます。
見れば見るほど、違いは際だちます。
赤いし、黄色いし、全然違う。
暑いところでとれるものと、寒いところでとれるものと、全然違う。
ながいし、まるいし、全然違う。
でも、魚座や射手座は、そこからすこし離れた場所に立ち、
木になるもので、種の周りにあって、
つまり、おなじ「果物」だ。
そういう抽象的な考え方ができるのです。

抽象
とは、
「あるものに潜む『象』を抽出する」
力です。
笑っていいとも
のコーナーから流行った(とおもわれる)
○○つながり
っていうのがありますが、
そういうことですね。
そのものが持っている特徴をつかみだし、
それを、ほかのものとつなげる。
これが抽象の力です。
違いを見つけて分類していくと、ものごとはどんどん孤独になりますが、
ものごとにひそむある「象」を取り出してほかのものとつなげていくとき
物事は、次第にひろがり、ネットワーク化していきます。
抽象のつながり
は、
こう、ものとものとを
接触させる
という感じではなく、
どこか、
血管をある部分からつなぎ合わせてそこに血を流す
というイメージがあります。
ある部分で、ほかのものと一体化する。
あるいは、ゲートがひらく。
だから、切り離そうとしても、それは、切れない。
ゲートを閉めることはできるかもしれないけど、
それは、
切り離されているか
というと
どうもそうではない。
いちどゲートができてしまうと、
それは
ひらくか閉じるか
くらいしか選択肢がなくなるし、
閉じればかならず、なにか不都合な事が発生する。
ものとものとをくっつけるのではなく、
○○つながり
なわけですので、そもそも、物理的に切り離すと言うことが
ナンセンス
になるわけです。

生まれてきて、成長して、
成長するほどに、自分の中のいろいろなモノが発見され、
外に出てゆく。
そして、そのいろいろなモノが、
外の世界に広がるいろいろな「象」とつながっていく。
つながりのなかで、
自分の中に流れ込むモノと、外に流れ出るモノができて、
社会からどうにも切り離れようがない「自分」になってゆく。
依存や甘えという言葉、
非常にネガティブに取り扱われていますが、
そもそも、
それは「ゆきすぎ」をとがめる言い方なのでしょう。
人に頼らず、人にかかわらず、
人に甘えたり依存したりせずに生きているなんて
ありえません。
以前週報かどこかで書いたと思いますが、
自立した大人になると言うことは、
人に頼らずに生きるということではない。
正しく人に頼り、正しく人に頼られることができるようになるのが
大人になるっていうことだ
と私は思います。
この
正しく頼り、頼られる。
そのことで、自分の生き方が社会の方へ広がる。
このことが、木星の管轄だろうな。
私はそんなふうに思います。
正しく頼る
っていうのは、
少な目に、コントロールして、ほどほどに頼る
という意味じゃないだろうな、とも思います。
「正しく」頼るって、
頼る「量」の問題ではなく、
頼ることを自分ではどう考えるか、
頼るときにどんなことに気をつけるか、
それを自分なりに作り出すことかなあと思うんです。
で、頼るときは、
めいっぱいちからいっぱい、頼っちゃう。
そのかわり
誰かが頼ってきたら
めいっぱいちからいっぱい、力になる。
あるしっかりした基準が自分の腹の底にあるなら、
とても自由に、きもちよく、へんな緊張感や迷いもなく、
そういう風にできるだろうと思うのです。
これでは、頼り過ぎ、あまえすぎかな?
こんなに助けたらこいつ、ダメになっちゃうかな?
そういう思い、誰でもあります。
その「これはやりすぎ?」っていう感覚について
「量的に、ほどほどにね」
っていう以外の解答が、
どこかにある。
たぶんある。
きっとある。
木星を正しく使うとき、多分、その答えがわかるのかなあ、っておもいます。


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